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渭山の謂れ

『城東渭山同窓会』の『渭山』の謂れについて。

『渭山』と言う名称がなぜ使われているかという事に疑問を持つ同窓生が多くおられると思います。特に若い方には『どうして?』と思われていると思います。城東高校の前身である徳島高等女学校校歌は『渭の山かげの松のみどり、、』と始まります。城東の校歌(1)番は『雄々しき渭山、、』です。

『渭山』とは城山の事です。
学校のすぐ近くの山の名称を校歌に入れたわけですが、
なぜ城山は『渭山』と言うのでしょう?

城山(徳島城公園)

これには2つの説があります。

<ロマンチックな説>
南北朝の頃、阿波の守護で後に室町幕府の管領と言う最高の地位につき将軍義満を補佐した細川頼之とゆう方が居られました。阿波国内を巡遊した時、緑したたる城山の影をうつして流れる助任川をみて、その美しい景観が、かつて絵画で見た中国の古都長安(今の西安)のほとりを流れる渭水(いすい)の画景にそっくりであるとして、この川を渭水、山を渭山(いのやま)と名づけた。そして渭山の山上に小城を築いた。と言う説があります。

<史実かも知れない説>
城山を西方から望見すると、ちょうど猪(いのしし)が伏せた形に見えるところから、猪の形をした山、つまり猪山と書かれていた。たまたま猪の字の音が渭に通ずるところから、いつとはなしに渭山と書くようになり、したがって山の周囲に展開する、吉野川の分流を利用した泊地(港)も渭津(いのつ)と呼ぶようになった。

参 徳島・城と町の歴史
                    著者 河野 幸夫

西安の渭水のほとりを歩く美しい方の姿を水面に映す情景が、女学校にはふさわしかったかもしれませんが、さて如何でしょうか。